昭和五十七年八月九日 朝の御理解
御理解第六十二節 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれといううておるが、御信心をしても、わが身の上におかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
人より我は尚よけれという事は、自分自身が真実の助かりを得る事だと思いますね。それは次に、人を助けると言うてもと、こう、人が助かるという事。人より我は尚よけれと何か、こう自分さえよければよいと言ったような感じがない、も、ないですけれども。ここは先づ、私自身が助かるという事だと思うんです、ね。私自身が助かっておらなければ、助ける事も出来ません、ね。勿論、初めから先生はいない。一段一段と高められていくのだという事ですから、まあ、そこの助かりの段階というものは限りがないのですけれども。昨日、皆さんもお取りになっとる方もありましょうが、「あいよかけよ」が送って来ております。一番初めのところに隅田隆太郎先生の記事のところを、昨日読んでもらったんですけれども。力の論理と神の論理というような見出しが出ております、ね。力の論理、又は神の論理と。
昨日研修の時に、ここのところを、ま、話題にさせて頂いたんですけれども。勿論、力の論理というのは、ま、例えば戦争なんか、もう戦争ほど馬鹿らしいものはない。も、勝っても負けても損だと、ね。いかに、いわゆる力があるの、力量があるのと言うても結局、あるものもないものも双方とも悲しい事であったり、こんな馬鹿げた事はない。そんなら神の論理とはと最後に少し書いておられますが、ね。人が助かる事さえ出来ればというお道の信心を、ま、神の論理というふうに結んでおられます。そこで昨日、先生方に、なら、合楽の場合はどういうだろうかと、ね。力の論理でもなかならければ、ここで隆太郎先生が言っておられる神の論理というのとも、ちっとばっかり違うようにある。例えば昨日の御理解を頂いても、ね。言わば、金光教祖が本当に受けられたおかげ、またそれをどうぞ信心しておかげを受けてくれよというのは、そういうおかげであって、どうぞどうぞと頼んだからとか、ま、言うなら力の論理という事になりますかも知れませんですね。ただ、がむしゃらに願ったりすがったりしたからおかげを受けるというのじゃなくて、神様との間に言わば、交流するものがある。そこから生みなされて来たものである。神様と一緒に喜び合える。お届け帳をくられては、ま、どうしてこういう事が出来たであろうかと、も、感動しておられると神様が、神様の方がどうしてこういう事が出来たであろうかと一緒に、それこそ悲しいまでの情感が、教祖金光大神と天地金乃神様の間に交わされておりますね。だからとにかく私は、過去の金光教の場合は、ま、人が助かる事さえ出来れば、それはそうなんだけれどもその助かりというのは、あの交流から生まれた助かりじゃないと思うです。ただお願いをしておかげ頂いたとか、ね。交流から生みなされるおかげを私は、もう説き続けておるのが合楽だ。また御理念によるものだ、ね。そこでその天地との交流という事のその手だてというのが、合楽で説かれる御理念なんだ。その天地との交流出来るような働きを受けておるのにそこを無にしてしまう。我力で助かろうとする。それで助かってもそれが交流という事にならないぞというのが昨日の御理解でしたよね。高松和子先生が昨日、頂いたお知らせを芯にして、ま、聞いて頂いた。もう、天地との交流というのは、も、ここを頂くより他にない。もう一遍昨日の御理解を頂いて下さい、ね。そこからしか本当の助かりはないと、ね。その本当に交流する手前のところで、ただおかげだけで終わっておるという。昨日の御理解でしたよね。天地との交流というのは、こういう時に交流するんだ。こういうところを大切にしていって初めて交流という事になるんだと。ですから、ま、力の論理とか神の論理とかというのは、ここんところにいうなら合楽は、ま、神の論理という言葉を使うならば徹底した神の論理が説かれてあるんだという事であります。ここに隅田先生が言うておられるのは、ま、お取り次ぎによって人が助かるという事が、神の論理とそれ以上の事は説いてありません、ね。ただ、過去百年の、ま、たくさんな教会が出来たり、たくさんな信者が出来たり、亡くなったり、出来たり、亡くなったりして今日になっておるけれども、ね。それがその本当に生みなすおかげになっていない。成程、あらたかな御利益も頂いた、ね。おかげも受けてきたけれども、それが生みなすおかげで・・・言わば、天地との交流から生まれてくるのではない。これは私の毎朝の御祈念の、ま、言葉の中にありますように、ね。日本国の繁栄、言うなら日本天皇を中心とした、ね。日本国民の助かりと立ち行き、それは、ね。日本国の、言うならば繁栄は、そのまま世界の繁栄平和につながるおかげを願います。日本の天皇を中心に日本の国民の助かりと立ち行きは、そのまま世界総氏子の立ち行き助かりにつながる事を願います。為には、どうでも神様、和賀心時代を十三日会を放生会を広めさして頂かなきゃならん。ですからあの自分の助かりが、ね。今日の御理解にもある。まず、んなら、日本国の繁栄を願う。しかもその繁栄は、世界の繁栄につながる繁栄である。今日のここでは、し、まずわが身におかげを受けてと仰せられる。まず我身におかげを受けて、そのおかげがまた周囲の人の助かりにもつながっていく助かりでなかならならないという。為には、和賀心時代を十三日を放生会をといったような内容の信心が、いよいよ万国津々浦々に広がっていくおかげを頂かなければならない。世界総氏子身の上安全世界真の平和という事をお道の信奉者なら誰でも願っております。祈る言葉の中に申しておるに違いありません、ね。それには、まず、ね。天地との交流との調和がいるんです、ね。ただ天地と調和するというだけじゃいけんです。いわゆる合楽で言われる、ね。天地との交流がなされなければ、いわば現代の世を寒天危地。寒い天危ない地と言われる。寒天きをです、ね。歓びの天、喜びの地、歓天喜地にしていけれる働きをと言うならば、天地との調和のもう一つ向こうにある交流何で酢、ね。その天地との交流が大きくなされていく事によって初めて、ね。言うなら歓天喜地のおかげにもなると確信いたします、ね。歓びの。人間氏子の世界が歓びの天、喜びの地に、が広まって参りますようにという、それには今、私が祈りの言葉の中に言うた順序がいるわけ、まず私が助からなきゃ、まず日本くに平和に繁栄していかなきゃならない。しかしそれは、どこまでも世界の繁栄平和につながるものでなかならなきゃならない。為にはそうしても、和賀心時代を十三日会を放生会をという、その信心内容というものが、ね。広がっていかなきゃならんというふうに、まず、んなら金光教自体が、いや金光教の中でも、過去百年の信心は、ただ人が助かる事さえ出来れば、という内容が非常に浅いものそれを神の論理だというふうに説いておるのです、ね。合楽で言われる神の論理という言葉を使うなら、もともとここに表現されてある、もっと深いもの。それは、ね。天地との交流、神様との合楽しあえる世界から生みなされてくるおかげを説くのが私は、本当の神の論理だと思うです。そこには、誰も説きません。説いておりません。過去においても、ね。ですから病気をした、お願いをしておかげを頂いた。自分が助かった。だからとにかくお参りしなさい。金光様で私は助かったから、成程ここも、言うなら自分が助かって同病相憐れむという人を助けて。けれどもこれが芯の助かりにはならないのです。それでは、それでは消えたりなくなったり消えたりなくなったり、そしていつの間にか段々細くなっていくという金光教の過去百年の金光教を見たらわかる、ね。世界真の平和の達成といったようなものが、ね。ただ天地との調和という位な事では、この、ま、言うなら寒天危地を乗り切る事は出来ません。寒い天危い地ね。それにはどうしても天地との交流がいるんです。それには昨日の御理解をもう一遍頂きなおしてね。あそこを頂きぬかなければ、合楽の信心は、も、骨抜きと同じ事。あそこの信心を頂いて天地との交流が、こ、交わされる中から生みなされてくるおかげであって、ね。初めて、ね。自分が助かり人も助かるという事になってくる。ただお願いをして病気が治った。お願いをしてこういう事が解決したといったような意味の助かりでは、ね。長続きしません、ね。天地とのいわゆる交流、ね。そこから限りなく生みなされてくるもの、ね。その限りなく交流し続けていけれる手だてが御理念である。だから、ここのところの御りをです、ね。自分の血肉にしていくという事に、これは、ま、生涯かけるわけでしょうけども、ね。そこに焦点を置いて信心を進めていかなければ、一段一段、言うなら自分でも感じられる位に信心が進んでいく度合がわかってくる。人間が人間らしう助かる。ちょっとみんなが、ほんなこつなら飛び付くような感じですけれども、ね。それはまず、人間が本当に人間らしうなる事を先にしなければ駄目なんです。人間が人間らしうといやぁ、も、何か、も、安易。人間の言うならもっておる我情我欲を剥き出しに、その出していく事が人間らしうというふうな間違った考え方を受けておる人があります。そうじゃない、人間が人間らしうという事は、まず、人間が人間らしくならないけんです、ね。そういう事の手だてがね。今、昨日から頂きますような御理解を芯にしてまいりますと、いつの間にか人間が人間らしくなるです。心が豊かになるです。大きくなるです、ね。そういう段取りというか順序をふんで信心を進めていくのですから、一段一段進んで行くのじゃという、その信心もそれこそ去年よりも今年というように、一年一年有り難とうなっていくのであります、ね。ただ、お取り次ぎを頂いてお願いをしておかげを頂いて助かったというのが、ならいつも、そうして助かればいいけど助かったり助からなかったりという事になりますと、ね。やっぱ頂いたおかげまでが軽んじる事になってくるんです、ね。
ま、合楽の祈りというてもよいでしょう。まず、日本の平和を、まず、日本国民の立ち行き助かりをそれは、どこまでも世界の平和につながり又は、世界総氏子の助かり立ち行きにつながる為には、神様どうぞ、和賀心時代を十三日会を放生会を、ね。例えば、なら、十三日会とか放生会とかいうのは、過去のあらゆる宗教がどうにも出来ない、ま、言うならば落ち込んでしまっておる。そこを救う手だて以外ないです。十三日会放生会というのは、ね。だからそれには、ね。そう、祈っておる私自身が、まず助からなければならない。まず、我身の上におかげを受けてというのは、そういう助かりを、まず私が目指さなければならない。そして成程、こういう信心でいくなら、いよいよ言うならば神の論理という事の深さに触れていく事が出来る。もう、おかしくてというか、ま、力の論理なんか本当に、もう本当にこげんつまらんもんな、馬鹿らしいもんなない、と、ま、先生は言うておられます。それは、勝っても負けても馬鹿らしいと、ね。どうでも助かるなら神の論理をただ、お取り次ぎを頂いて助かる。人をお導きして、その人が助かりなさったというような程度じゃなくて、ね。根本、言うなら天地との交流の手だてを教える為には、まず自分自身が天地との交流の手だてを、まずは頂かなきゃならない。それを昨日の御理解は、この行き方で行きゃ天地と必ず交流するという、お話しだったでしょう。だから昨日、研修の時にも、ま、申しました事でしたけどね。だからここんところを結局、体得する以外ないよと、ね。そして神様との交流、ね。ただ、自分よがりの喜びというようなのでは生みなされません。神様と、ね。交流し合うての喜びでなからなければ、生みなすおかげになって参りません。というような意味でね。合楽で説かれておる御理念は、いわゆる神の論理のもう、ま、超論理とでも言おうか、いや、神様の本当の意味での神の論理という事になるのじゃないか。私は、ここにあの先生が書いておられる神の論理というのは、過去金光百年が、で、みんなが体験してきた事の程度で、もし止まるとするなら、金光教もたいした宗教でないと私は思います。天地との調和というようなところをあらゆる宗教が説きましたね。けれども天地との交流という事は、も、金光大神一人です、ね。だからこそ天地人一如の世界。言うならば、此の方が祈るところ天地金乃神と一心とか同根とかというような御心境が開けてきたんです。そこんところをね。私共がやっぱ、頂く手だてがしかも、合楽ではこのように、みやすう説かれてあるのですから、せっかく信心の目標をおくなら、そこに置いての一つの私共、まず我身の上におかげを受けて、そして後に人を助けてやれというような限りがない助かりにつながっていくような助かりを、お互いめざめなければいけないと思うですね。 どうぞ